「死者はどこへ行く?」という問いの錯覚
人は誰かを失ったとき、決まって同じ問いを口にする。
「死んだら、どこへ行くのだろうか」。

天国なのか、地獄なのか。
黄泉の国なのか、来世なのか。
あるいは、完全な無なのか。
古代から現代まで、人類はこの問いを繰り返してきた。
宗教は物語を与え、哲学は概念を与え、科学は仮説を与えてきた。
それでも答えは定まらない。
だが、ここで一度立ち止まって考えてみたい。
この問いそのものに、ある前提が含まれてはいないだろうか。
それは──
死者は「どこかへ行ってしまった存在」だという前提である。
もしその前提自体が誤っていたとしたら。
もし、死者は「行った」のではなく、
ただ存在のあり方を変えただけだとしたら。
問いは、まったく別の形をとり始める。
不在という“形”で存在するもの
死者は、もうここにはいない。
触れることもできず、声も聞こえない。
姿も、ぬくもりも、確かに失われた。
それなのに、完全には消えない。
ふとした瞬間に、匂いがよみがえる。
何気ない言葉の癖を思い出す。
無意識に、その人ならどう言うだろうかと考えている。

そこにいるわけではない。
だが、いないとも言い切れない。
不在とは、存在が消えた状態ではない。
不在とは、別の形で存在している状態なのだ。
死者は、物理的には失われた。
しかし心理的・象徴的には、むしろ強く存在することがある。
それは「いないからこそ意識される存在」。
欠けたことで輪郭を持つ存在。
死者は、不在という形をまとって、今もここにいる。
記憶という黄泉 ─ 生者の内側に広がる世界
黄泉という言葉は、遠い世界を想起させる。
地下に広がる国、霧に包まれた境界、戻れない場所。
だが、もしかすると黄泉は、
私たちが思っているよりずっと近いところにある。

それは、記憶の中だ。
思い出すたびに、死者は現れる。
声なき声として、映像なき映像として。
記憶は単なる過去の記録ではない。
それは、死者が生者の世界に存在し続けるための通路だ。
誰かを思い出すとき、
私たちは過去を見ているのではない。
いま、この瞬間に、その人を生かしている。
黄泉とは、
死者が生者の意識の中で息づく場所。
時間を超えて、静かに広がる内なる領域なのかもしれない。
忘却というやさしさ ─ 記憶は変わり続ける

時間が経つにつれ、記憶は変わる。
鮮明だった表情は曖昧になり、
細かな出来事は失われていく。
それは裏切りだろうか。
死者を忘れることは、非情な行為なのだろうか。
おそらく、そうではない。
忘却とは、
心が自分自身を守るために行う自然な調整だ。
悲しみを抱えたままでは、生き続けられない。
だから記憶は、角を丸め、重さを軽くする。
忘れることは、死者を捨てることではない。
忘れることは、死者を「生き続けられる形」に変えることだ。
黄泉は、固定された場所ではない。
記憶と忘却のあいだで、
ゆっくりと形を変えながら存在し続ける。
死者は生者を通して生きる
死者は、何も語らなくなる。
だが同時に、別の形で語り始める。

生者の選択の中で。
生き方の癖の中で。
価値観や判断の基準の中で。
「なぜか、そうしてしまう」行動の奥に、
死者の影があることは少なくない。
死者は、記憶として生きるだけではない。
生者の行為そのものの中に宿る。
そう考えると、
死者は亡くなった瞬間よりも、
むしろその後の時間のほうが、
深く世界に関わっているとも言える。
生と死の境界は曖昧である
私たちは、生と死を明確に分けたがる。
こちら側と、向こう側。
始まりと、終わり。
だが実際には、その境界はとても曖昧だ。
生きていても、心が死んでいる瞬間がある。
死んでいても、強く生きている存在がある。

生と死は、断絶ではない。
連続したひとつの流れだ。
黄泉とは、その流れの中間にある領域。
生と死が静かに重なり合う場所。
そこでは、
死者も生者も、
同じ時間を、違う形で共有している。
問いを残す
死者はどこへ行くのか。
この問いに、確かな答えはない。
だが、
死者が「どこにいるのか」なら、
私たちはもう知っている。

それは、
思い出す瞬間に。
迷うときの判断に。
言葉にならない感情の奥に。
死者は、
生者の心の深いところで、
静かに存在し続けている。
あとがき(黄泉の部屋より)
死者は消えたのではない。
ただ、触れられない場所へ移っただけだ。
その場所は、
天でも地獄でもない。
宇宙の果ても、地の底でもない。

それは、
生者の心の奥、
言葉にならない領域のどこか。
黄泉とは、
生きている者と、
生きていた者が、
同じ世界を違う形で歩くための場所なのだ。
そして今日も、
私たちはその黄泉を通りながら、
誰かとともに、生きている。


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