「何もない」とは、本当に何もないのか

夜空を見上げるたびに思う。
なぜ、私たちはこの“何か”の中にいるのだろう。
なぜ、世界は存在しているのだろう。
この問いは、哲学の始まりにして終わりのないテーマだ。
古代ギリシャの哲学者パルメニデスは「無から有は生じない」と言い、
現代物理学者たちは「量子のゆらぎから宇宙が生まれた」と語る。
だがその根底には、もっと単純で、もっと恐ろしい疑問が潜んでいる。
──そもそも“無”とは何なのか?
もし本当に“無”であるなら、時間も空間もエネルギーもない。
「無い」という言葉さえ成立しないほどの、完璧な“無”。
その“無”から、なぜ“有”──つまり、宇宙が生まれたのか。
それを考えることは、
「なぜ私がここにいるのか」を考えることでもある。
宇宙の始まり──ビッグバンとその“前”

現代科学が語る宇宙の始まりは「ビッグバン理論」だ。約138億年前、あらゆる物質とエネルギー、空間と時間が一点に凝縮し、そこから膨張が始まったとされる。
しかし、多くの人が抱く疑問がある。
──その“前”は何だったのか?
物理学者スティーブン・ホーキングは「時間はビッグバンで始まった」と述べた。
つまり、「前」という概念そのものが存在しない、という立場だ。
けれど、近年ではこの考え方を補う仮説も提唱されている。
例えば「サイクリック宇宙論(Cyclic Universe Theory)」では、宇宙は膨張と収縮を永遠に繰り返しているとされる。
また「量子重力理論」では、極小スケールでは時間や空間が“揺らぐ”ため、
始まりも終わりもはっきり分けられない可能性があるという。
結局のところ、私たちが「宇宙の始まり」と呼んでいるのは、
“観測可能な世界の始まり”に過ぎないのかもしれない。
哲学的な“無”と“有”──存在とは何か
哲学者マルティン・ハイデガーは言った。
「なぜ、無ではなく有があるのか。それこそが、あらゆる問いの中で最も根源的な問いである。」
(Warum ist überhaupt Seiendes und nicht vielmehr Nichts?)
(出典:1935年 講義『形而上学入門』より)
私たちは「ある」ということを当然のように受け入れている。
だが、その“ある”とは何を意味するのか?
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と述べ、
意識の存在をもって“存在”の証とした。
しかしこの言葉も、“存在する思考”を前提としている。
私たちは、「存在の外側」に立って存在を説明することができないのだ。

このパラドックスの中で、宇宙は“説明不能な存在”として、静かに私たちの前に広がっている。
“無”という海──あらゆる可能性が眠る場所
“無”とは、単なる「何もない」状態ではない。
それは、まだ形を持たない“すべて”の可能性が沈んでいる“海”のようなものだ。
仏教の“空(くう)”も同じ考え方を示している。
空とは、存在を否定するものではなく、
「どんな形にもなりうる柔らかな状態」を意味する。
つまり、“無”とは存在を拒むのではなく、
存在を生み出し続ける母体だ。
科学の世界で言う“量子のゆらぎ”もこの概念に似ている。

何もないはずの真空の中で、粒子と反粒子が一瞬だけ生まれては消えていく。
そこには「無」ではなく、「まだ形を取っていない有」がある。
宇宙はその“ゆらぎ”が永遠に続いた結果として
「安定した存在」を手に入れたのかもしれない。
意識と宇宙──観測することで世界は“形”を持つ

量子物理学には、「観測されるまで現実が確定しない」という原理がある。電子や光子は、観測されるまで“波でも粒でもない”。
観測の瞬間に初めて、その姿を“選ぶ”のだ。
この奇妙な性質は、
「宇宙は観測者がいるから存在している」という考え方を生んだ。
物理学者ジョン・ホイーラーは、
「宇宙は観測によって自己を確立する構造である」と述べている。
(出典:「参加型宇宙論(Participatory Universe)」参考:Curanz Sounds)
もしこれが正しいなら、宇宙の存在とは、
“意識による自己観測”の結果にほかならない。
私たちは宇宙を見ているのではなく、
宇宙が“私たちという目”を通して自分を見ているのかもしれない。
スピリチュアルな視点──“存在したい”という意志
スピリチュアルの世界では、
宇宙は「意識そのもの」だと考えられてきた。
古代インドのヴェーダ哲学では、
世界は「ブラフマン(大いなる意識)」の投影であり、
私たち個々の意識はその一部──アートマン──とされる。

つまり、宇宙は「見られる世界」ではなく「感じられる意識」なのだ。
“無”が自分を知りたいと願った瞬間、
“有”が生まれた──そんな神話のような仮説も、
あながち空想だけではないのかもしれない。
「宇宙とは、存在したいという意志そのもの」
そう考えれば、私たち一人ひとりの“生きようとする力”も、
その宇宙的な意志の断片と言えるだろう。
問いを残す
宇宙はなぜ存在するのか。
“無”がなぜ“有”になったのか。
この問いに答えることは、おそらく永遠にできない。
けれど、「なぜあるのか」と問うその行為こそが、
“意識”そのものの働きなのかもしれない。

宇宙が私たちを生んだのか。
それとも、私たちが宇宙を生み出しているのか。
帷(とばり)の向こうにある真実は、
きっとその両方のあいだに漂っている。
✴️あとがき(帷の部屋より)
宇宙は、遠くの星々ではなく、
私たちの意識の奥深くに存在している。
私たちが「なぜあるのか」と問うた瞬間、
その問い自体が、宇宙をもう一度“生み出している”のだ。
だから、宇宙の秘密を探す旅とは、
自分の内側を覗き込む旅でもある。
帷の向こうに広がるのは、暗闇ではない。
そこには、まだ名もなき“光の始まり”が
静かに息づいている
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