嘘は悪なのか?
「嘘をついてはいけません」と教えられてきた。
けれど、生きていく中で私たちは小さな嘘をいくつもつく。

誰かを傷つけないため、
場を穏やかに保つため、
あるいは、自分を守るために。
夜の台所、湯気の向こうで彼女は小さく“平気”と笑った。
それでも、人はどこかで「正直でなければ」と苦しむ。
まるで真実だけが正義で、
嘘はすべて罪であるかのように。
だが本当に、そうだろうか?
もしかしたら、嘘とは、
人間が“優しさ”を形にした瞬間なのかもしれない。
真実という暴力

真実は、いつも正しいとは限らない。
たとえば誰かの欠点を正直に指摘すれば、
それは「誠実な行為」かもしれない。
しかし、その一言が誰かを深く傷つけることもある。
真実は刃物のようなもの。
使い方を誤れば、人を切り裂く。
真実は「善悪」よりも先に、まず「力学」として立ち上がる。
それを扱うには、意志と覚悟がいる。
だからこそ、人はときに“嘘”という柔らかな膜で真実を包む。
嘘という優しさ

ある人は「大丈夫」と言う。
本当は大丈夫じゃないのに。
ある人は「平気だよ」と笑う。
泣かないように、相手を安心させるために。
その瞬間、嘘は罪ではない。
むしろそれは、人が人を思うための“心の技術”だ。
嘘とは、真実を隠すための仮面ではなく、
震える心にかける薄い毛布である。
社会の中で、人は「正直」だけでは生きられない。
優しさとは、真実をすこしだけ曲げる勇気でもある。
ただし、その勇気が“相手の時間や選択肢を奪っていないか”は、いつでも点検できる。
自分につく嘘 ─ 生きるための自己防衛
他人への嘘よりも、
もっと深いのは“自分につく嘘”だ。

「もう平気」「これでいい」「自分は大丈夫」
そう言い聞かせながら、心の傷を覆い隠す。
その嘘がなければ、生きていけない日もある。
本音をさらけ出せば壊れてしまう瞬間がある。
だから人は、
“本当の自分”を守るために嘘をつく。
それは欺瞞ではなく、生存本能。
心が自分を支えるための、自然な仕組みなのだ。
その嘘が“今は必要な包帯”なのか、“外せなくなった仮面”なのか――眠る前の一息で確かめたい。
社会という劇場 ─ 嘘と真実のあいだで

社会は、無数の“建前”でできている。
笑顔で挨拶し、形式的に謝り、
本心とは違う言葉を選ぶ。
私たちは、嘘をつかないと社会を動かせない。
「正直だけでは壊れる」ことを、
本能的に知っているからだ。
演技とは、嘘の技術だ。
けれどその演技が、社会という劇場を成立させている。
嘘が完全になくなった世界は、
きっと人が住めないほど“鋭利な場所”になるだろう。
ただし、関係に勾配(上下・依存)があるとき、“優しい嘘”は容易に操作へと反転する――ここにだけは細心の注意を。
真実と嘘を超えて ─ “誠実さ”というもう一つの軸
真実と嘘は、単なる二択ではない。
その間には、“誠実さ”という軸がある。

誠実とは、「本当のことを言う」ことではなく、
「相手と向き合おうとする意志」のこと。
嘘をつくことも、
沈黙を選ぶことも、
その人なりの誠実の形である。
沈黙が誠実であるためには、相手の尊厳を守る“聴く姿勢”が同時にそこに在ることだ。
問いを残す
真実は、いつも正しいのだろうか?
嘘は、いつも悪なのだろうか?
もし“優しい嘘”が誰かを救うなら、
それは罪なのか、それとも愛なのか。

私たちはみな、
真実と嘘のあいだで揺れながら生きている。
そしてその曖昧さこそが、
人間という存在の美しさなのかもしれない。
あとがき(裏の部屋より)
嘘は、光を弱めるための闇ではない。
光が強すぎるときに、人を守るための陰影だ。
真実は力であり、扱いには体温がいる。
真実ばかりを求める世界は、息苦しい。
だから人は、嘘を覚えた。

その嘘の奥には、
他者への思いやりと、
自分を守ろうとする“やさしさ”がある。
人は、真実の中では生きられない。
けれど嘘の中で、ほんの少しだけ、
人間らしくなれるのかもしれない。
今夜、自分にどんな優しい嘘をつこうか。

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